「福来心理学研究所を超心理学研究の広い場へ、という私の願い」


黒田正典

 
 
 この研究所は、いろいろの方がここにおいでくださって、不思議な体験とかそういうことについての自分の研究について発表してくださったり、あるいはお互いの研究について和やかに批評を交換したりする場であってほしいと私は願っております。
 しかしこれには少し難しい問題が絡まっております。「あなたは私の話をウソと思うのかホントと思うのか、どちらだ。」という論法に巻き込まれやすいのですが、これではケン力話になって、超心理学の客観的・科学的な研究をできなくしてしまうのです。お互いどういう態度がいいかといいますと、自分の主張は「仮説」であると考えておいて、それは正しいかもしれないし、誤りかもしれないと考えるゆとりをもち、正誤の決着はそれを証明する事実を集めて調べること(「検証」といいます)をやった後で決めようというやリ方をするのです。科学哲学ではこういう研究法を「仮説検証法」といいます。
 例をあげて説明しましよう。いま写真に白い人の姿らしい曇りが出ていたとします。この場合、これは幽霊かもしれないし、あるいは何かの原因で写真機によけいな光がさしこんだかもしれないし、あるいはまたフィルム現像のときによけいな薬品が流れたのかもしれないと考えるのが、仮説です。ここでは仮説が三つ立てられたのですね。そこでこの写真が撮影されたときのいろいろの条件・状況が調べられ、またフィルムが現像されたときの様々の手続きとか条件が調べられます。つまり仮説の検証が行われるのです。 ところが超心理学、あるいは広く一般に科学そのものの素人(もし読者のあなたに失礼でしたら、ごめんください)は、「この人の姿の白い曇りは幽霊写真だ! お前は信ずるのか、信じないのか。」と断定を強制するのです。これでは科学的な事実を明らかにすることは不可能なのです。

 それなら科学的な事実を明らかにすることができるような議論の仕方とは、どんなものでしようか。 それはお互いに自分の説も相手の説も「仮説」として扱う心のゆとりをもつことです。具体的には「自分の説が正しいかもしれない、間違っているかもしれない、あるいは自分の説は大体は正しいとしても多少、修正が必要かもしれない。」という考え方、態度をとるのです。相手の説につきましても同様に、「相手の説が正しいかもしれない、間違っているかもしれない、あるいは相手の説が大体は正しいとしても、多少、修正が必要かもしれない。」というように考えるのです。こういう態度の人たちが議論して、仮説の肯定または否定ということで自分も相手も一致した場合、仮説検証法に基づいた科学的結論が得られたことになるのです。
 仮説というのは、・…・であると「仮に考えておく」ことです。通俗的な考え方からすると、「いやしくも自分の考えの真実性を主張しようとするものが、“仮に考えておく”とはなんたる弱腰か。」と言いたくなるでしよう。しかし真実性の科学的証明では、大声叱呼とか強迫によって達成されることではなく、論説のなカノで提出される事実の力や事実群を結びつけ組織する論理の力で達成されるものです。実例をあげますと、昭和42(1967)年に日本催眠医学心理学会が仙台において開かれ、中沢信午・三品正直・杉山清人連名で黒田が代表して『福来友吉博士の業績の紹介―催眠心理学的側面とその後の展開―』を発表しましたが、この時は大声や強迫ではなく、上述の「事実の力」、「論理の力」によって参会者の皆さんが福来先生の功績を承認する結果になりました。研究所における例会とか研究所の会報という場面では、いろいろな仮説の併存も認めながら、ゆとりある客観的な討論を通し、事実と論理の力によって真実性に到達したいものだと、私は考えます。
 以上、超能力や超常現象をどのように科学的認識のなかに取り込むかという問題を、仮説という形で入れて解決するやり方を述べました。そしてこれだけでなく、そのほかの解決法を従来の哲学や社会科学や心理学の中にも発見できるのです。
 例えば「現象学」という哲学の一領域がありまして、日本や外国を通して主流派として盛んに研究されています。普通、物質や心を研究するといえば、最初から物質が実在する、心が実在すると決めてかかって、それを分析するのです。ところが現象学は、最初からそう決めておいて分析するのではなく、物質とか心などの前に私たちに「確かに与えられているもの」を「現象」と呼び、これを分析するのです。例で説明しましょう。
 いま、仏壇に捧げられている美しいおいしそうな赤いリンゴを私は見ているとします。この場合、リンゴの形と美しい赤い色は確かな現象です。しかし「リンゴ」という 「実在」は確かでないのです。本当にリンゴであるか、そうでないかは、ただ見ているだけでは確かではないのです。それは巧妙に作られたプラスチックの貯金箱であるかもしれません。この場合リンゴは実在ではありません。
 現象学では「リンゴを見ている」という体験を分析する場合、リンゴというものの「実在」を肯定するのではなく、否定するのでもなく、単に疑うのでもない態度をとるのです。
 そして確かに存在しているもの(例、形や色、「感覚的所与」)と、単に実在すると思われているにすぎないもの(例、リンゴの手触り、味など「志向的対象」)、「リンゴがある」と思っている心の働き(「志向作用」)を分析してゆくのです。現象学のこのようなきめの細かい分析は、私たちにも参考となるものです。例えば心霊現象は実在するか、しないかといった粗い設問を回避させます。

 さて、多くの研究者の間で共通な認識が「客観的」とか「科学的」などと呼ばれます。これに対して個人的な信念や思想をどう扱うかという問題があります。
 心理学史の中にもこの問題を扱う巧みな提案が出ています。それがトールマン(1886−1959)が考えだした次の公式“独立変数×媒介変数=従属変数”です。ここで変数というのは出来事または変化と読み替えていいでしよう(できるだけ測定することを理想とするので、「数」の字を当てはめています)。独立変数は時間的に先行するものです。従属変数は時間的に後から出てくるものです。両方とも研究者の目で観察できるものです。これらに対して媒介変数は観察できないもので、いわゆるブラックボックス(暗箱)ですが、これが上の公式の左辺と右辺の等しい関係を成立させるものとして仮定されるのです。具体的には左辺には環境の刺激と生理的条件、右辺は結果として現れた複雑な行動で、両者とも科学者の間で共通に認識できるものです。そしてなぜ左辺が右辺に変わったかは、直接には観察されない真ん中の媒介変数のためだ、というように説明します。そしてこの媒介変数に何を仮定するかは、それぞれの科学者の解釈になると考えることにするのです。
 こういうやり方で従来の「科学的心理学」が拒みつづけた「目的」とか「意識」を、トールマンは説明概念として取り上げることができるようにしたのです。私は、この媒介変数というものに「超能力」とか「心霊」などを入れて扱うことができると思います。つまリ独立変数と従属変数の部分は研究者のイデオロギー・思想と関係なく、協力して研究でき、共通の科学的知識として蓄積できるのです。こういう理論で、異なる心霊観・死後生活観の人たちの間でも研究協力はできると私は考えており、当研究所もそういう研究体制が広くわが国の中に早くできるように努力したいと、念願しております。
 (財団法人福来心理学研究所会報No.24より)