福来心理学研究所を超心理学研究の広い場へ(承前)
 
 

−科学的研究とは何か−


黒田正典


  世の習わしとして、生活のために良い方法とか手続きが見つかると、簡単に…の科学などといったり、あるいは神秘的なことを科学の名において「否定」したり「肯定」したりします。しかしその科学とは何かついては真剣に考えてのことでなく、人それぞれの感じだけで議論している場合が多いようです。
  哲学事典や百科事典には諸学者による科学の定義がいっぱい出ています。しかし私は、あまり有名ではないけれど、フリッツ・キュンケルというドイツの性格学者の、科学とは「…ならばの文」だいうのを選びたいと思います。つまりある事実がある、と言う場合には、らぱいう、その事実を言うことができる前提条件を明示するのが科学だ、と考えるのです。これに対して宗教・信仰は前提条件を示さないで、「ただ信ぜよ、さらば救われん。」とひたすら主張します。「体験すれば解る」という論法ですね。つまり宗教・信仰は自分の主張が唯一正しい、絶対的という言い方をします。
  これに対して科学は、自分の主張は正しいかもしれないし、逆に誤っているかもしれない、という考え方をします。すなわち、主張は前号で述べた「仮説」と考えるのです。そして究極的にはどれが正しいか,みんなで事実を集めて調ぺようという行動になります。ですから科学の立場は絶対主義ではなく、違ったものも可能であるという相対主義になります。

  ここに超心理学研究の難問題があります。科学は「そうではないかもしれない」ということも用心する心のゆとりを必要とします。これに対して超能力を発生させるには、きわめて強い信念・信仰が必要です。同一人で超能力者と真の科学者を兼ねた実例は、多分ないと思います。福来先生も超能力をみずから発現させて、超能力の存在の事実を身をもって実証しようと、高野山で修業して、確かに発現したそうです。しかし1週間で消えたそうです。
  当研究所の理事だった故岡田幸雄博士はこの間の微妙な方法論的問題について、すぐれた提言をなさいました。科学者も能力者も無理をする必要はない、科学者は現象が科学的実験の土俵に昇れるようにすることと、能力者を養成・訓練することに努力すること、他方、能力者は自分の信念・信仰を鍛え、強力な能力の発現を目指すのがよい、と主張したのです。つまり役割の分担が必要だと考えたのです。

  ここでもう一度、科学的な実験的データと未知の神秘的要因とをどう組み合わせて研究するか、について考えましょう(前号もご参照ください)。
 心理学における古い考え方の行動主義では、いろいろの心理現象は、何らかの物的・心的な刺激があると、その独立変数(変数は要因読みかえてよい)が従属変数(結果と読みかえてよい)としていろいろの行動とか現象を生ずると考えます。この考え方では議論は、「信ずるか、信じないか。」の決めつけごっこになり、科学的研究が出てきません。
  ところが、図2のような新行動主義の考え方になりますと、左辺と右辺の間に「媒介変数」というものを入れて、左辺が右辺のように変ってきたのは、媒介変数が働いていたためと考えるのです。左辺の独立変数と右辺の従属変数とは「観察可能」なものです。つまり普通人の眼や耳等の五感でとらえられ、そして機器で計量可能なものです。これに対して「媒介変数」は「観察不能」(ブラックボックス)である「心」、「性格」、「習慣」、「能力」、「態度」、「人生観」、「霊魂」など、前に「仮説」と言っておいたものが皆入るのです。そしてこの仮説の部分は、学者ごとによって違っていてもかまわないと考えます。
  いまライン博士のESP実験を例にしますと、衝立の向こうに裏返しにいろいろの図形のカードを置きます。被験者はこの図形を手元の紙に直感したままに描きます。被験者には老若男女、できるだけ多くの違った人を頼みます。このようにして正しく的中した全被験者の平均的中率を調ぺます。他方、図形カードについて、でたらめに推理しても偶然に的中してしまう偶然的中率を数学的に計算します。うイン博士はこの二種の的中率の差を統計学的に比較して平均的的中率が有意に高いことがわかりました。つまり多数の被験者のカード裏図形の直感という独立変数と、高い的中率という従属変数の間こは、なにらかの未知の要因が媒介していることが確実に証明されたのです。
  ただしライン博士はこの未知の要因の名をあげることはしませんでした。しかし博士の方法は新行動主義心理学の路線に添っていると私は考えます。今後の超心理学研究は、このやりかたで立場・意見は連う研究者の間でも、共通に認めざるをえないデータを蓄積してゆくことによって、研究者のほとんど全体が認めるような仮説が誘致されると、私は考えます。自然科学の進歩は文化科学よりも速いようですが、それは共通のデータが多いことによるといえるのではないでしようか。
  ところでもうーつ考えねばならない問題は、超心理的研究はどうしても特定の人生観・世界観を前提としなければならない部分もあることです。例えぱ仏教的世界観とキリスト教的世界観の違いは「心霊世界」の違いと結びつかざるをえません。一例として仏教のそれとスウェーデンポルグのそれとはかなり違います。上述した媒介変数の方法論だけでも処理しきれません。科学的研究と特定の世界観(人生観もここに含めて考えましょう)をどのように関係づけるかが、問題です。
  私はさきに述ぺた「前提」または「ならば」を特定の世界観と科学的研究の間に置きたいと考えます。例えば資木主義経済と共産主義経済は世界観の差を表しています。ある具体的経済政策がよいか、わるいかという価値判断は、どちらの世界観を前提にするかによって異なります。このような状況を説明する実例をあげてみましょう。
  終戦後日本の宰相吉田茂は日本の経済再建のため、当時のマルクス経済学の巨頭、大内兵衛を財政顧問に委嘱しました。これは一見、矛盾しています。吉田は資本主義国最高リーダー、大内は社会主義経済の指導者です。しかし大内は個人としての世界観はマルクス経済学ですが、「かりに資本主義の立場に立ったとしたならぱ、どういう政策が資本主義体制に有利か。」という思考法をとって、吉田首相にアドバイスしたのです。つまり「ならば」の前提のもとで、やはり客観的な計算・判断をしたのです。
  超心理学的研究においても、立場・世界観の異なる研究者の間で、このようなやり方で互いに貢献できるはずです。なおこのやり方は、マックス・ウェーパーという社会科学者の「理想(理念)型」という方法論からヒントを得ていることをつけ加えて、いちおうこの巻頭言を終えておきます。皆さんからのご質問も期待しております。
 (「財団法人福来心理学研究所会報」No.25より)

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