|
武内天真による人の運の念写
大正3年3月21日の夕方、福来博士は武内氏と夕食を共にした。 食後武内氏の念写気分が高まっていると見えたので福来博士は実験することをすすめた。武内氏が快く応じたので、手札形乾板3枚重ねを黒色の不透明紙に包みボール紙の箱に入れて懐中にし、武内氏の平素愛読していた大町桂月著人の運という書物の扉にある人の運の字を3枚重ねの乾板の中央に、念写することを求めた。武内氏は人の運の文字を約3分間凝視し、ついで約12分間の精神統一によって実験を終った。福来博士が直ちに現像した所人の運(4図)の3字が鮮明に出現した。 ほかに膜一面に小さな文字がたくさんある。よく吟味してみるとそれは人の運の扉の次ぎのページに印刷してある桂月氏自筆の序文が写っていたのであった。これは武内氏が全然念じていないもので、いわゆる潜在観念の念写である。武内氏が1年前にこの序文を数回読んだことがあるのでその記憶観念によって生じたものであると福来博士は解釈している。
大正8年1月6日午後7時山梨県南都留郡瑞穂村下吉田ホーリネス教会で念写実験が行われた。立会人は瑞穂村蓬莱病院長渡辺瑳美、教会牧師泉田精一、小学校長中沢吉之助氏その他の先生、青年約20名であった。午後6時訓導の山中信俊氏は立会人の依頼により、下吉田写真師渋江方より手札形乾板1ダースを原封のまま購入し、懐中に入れて実験の始まるまで厳重に保管した。午後7時,、渡辺偉哉氏は室の一方に卓を前にして立会人に面して着席した。泉田牧師は山中氏の提出した乾板をうけとり偉哉氏の前の卓上においた。偉哉氏と卓とは60センチ離れていた。念写問題は文化運動の4字を2枚目に、霊光の2字を4枚目に、大正の2字を6枚目に念写することに決定された。渡辺偉哉氏は文化運動を2分35秒、霊光を5分30秒、大正を5分37秒で念写した。終ると写真師遠藤氏は立会人監視の下に現像に着手したが、2枚目は現像液に浸すこと約3分間で文化運動(5図)の4字を現わし始め10分間で極めて鮮明となった。4枚目は2枚目と同時に同一のバットで現像して約3分間で霊光(6図)の文字が現われ始め10分間で鮮明となった。6枚目は10分間でも膜全面に感光を示すのみで文字を現わさず、更にその他の乾板は感光の形跡が認められなかった。