福来博士は哉天兆の文字を撮影して未現像の乾板を長尾夫人に堤出してその文字の透視を求めた。透視が的中したのでその乾板を実験に使用しない控の乾板と共に現像したところ、長尾夫人の透視実験に使用した乾板は著しく感光していた。これは長尾夫人の精神の働きによって現われた現象と見る外はない、もしそうなら長尾夫人が乾板に精神を集中するならば感光するはずであると考えそれを実験してみた。
乾板をボール箱に入れ、箱の上に心の字を書い白紙を貼付し、心の字を乾板に念じこむ気になって精神統一することを求めた。長尾夫人は約1分間心の文字を熱心に凝視し次に両眼を閉じ合掌し天照皇太神宮と3度念唱し、次に南無観世音大菩薩と静に念唱して念唱を終った。直ちに現像した結果、不定形の像が現われた(図1)。心という文字ではないがとにかく精神の働きこよって感光したとは疑いない。これが念写の曙光であった。ときに明治43年12月26日であった。その後は次々と念写実股に成功した。
川(2図)の念写は明治44年1月4日に今村博士、菊池、藤原咲平の諸氏立会の下に長尾夫人によって、3枚重ね乾板の中間の1枚に行われたものである。
明治44年4月 9 日午後4時頃より福来博士宅で森竹鉄子の念写実験が行われた。手札形乾板2枚を取枠に入れ小紙片に大の一字を書きこれを念写することを求めた。森竹氏は取粋を机上に立てその上に大と書いた紙片をおき、これを凝視し念写した。実験は約2分間で終った。福来博士が現像し2枚とも大の字が明瞭に現出した(3図)。大の字の外に方形の木理の如きものが現出していた。これは福来博士によると潜在観念による念写に相違ないと思われるが、この潜在観念が何を意味しているかが問題である実験の前日彼女は或人から折詰にした御馳走を貰った。その中に方形の薄板が食物と食物との間のしきりに用いられてあった。彼女は料理を食べながらこの薄板をじっと見つめていた。−なにかの拍子に物を見つめるのは彼女の習癖であった−そして念写に現われた木理ある方形はその時の薄板によく似ていると彼女は説明した。薄板の観念が翌日の実験において潜在的に働いて、木理のある方形を乾板上に現わしたのであろう。又2本の棒状の像は大と書いた白紙を押えながら念写したときの指に似ている。
長尾郁子による初期の念写(図1,2)と森竹鉄子による念写(図3) |