私は明治四十三年以来の心霊研究によりて、神通力の存在を実験的に証明することが出来た。神通力とは物理的法則を超越して活動する力である。而も此の力は人間の心と感應して知的に働くものであるから、之を物理的法則に従って器械的に働く物質力から区別する為めに霊と名けられて居る。併し更に徹底的に研究を進めて行くと、物質力其物も結局霊の念力によりて顕現されたものにすぎぬと言ふ結論に達することが出来る。だから宇宙は霊の活動から成って居る。霊の外に何物もない。吾人の日々認識して居る物理的現象は霊の活動の一小部分にすぎぬ。霊の活動の大部は吾人の認識を超越する不可知の世界となって居る。
併し此の不可知の世界が永劫に不可知として残されるものであるなら、それはカントの説く本体界のやうなもので、唯在りと仮定されるだけで、確に在るものとして学的に証明出来ぬものである。併し私の言ふ不可知の世界とは決してそんな仮定的なものでない。不可知とは理知主義の認識論者の謂ゆる認識によりては不可知であると言ふにすぎぬ。理知主義の認識論者は彼等の認識する世界以外のものは到底知ることが出来ぬと定めて居るのだから、斯る論者から言ふと吾人の説く不可知の世界は永劫に不可知の世界である。併し斯る考へは根本的に間違って居る。理知主義者の謂ふ認識なるものは人間の霊のほんの上皮の浅薄なる働きにすぎぬ。精神統一して三摩地に入ると、神秘智が働き出して認識以上の認識をする。即ち眼によらずして一切を見、耳によらずして一切を聞き、手を延ばさずして物に触れると言ふ神通の働きをなすのである。それで理知主義の認識論から見て認識超越の不可知の世界も神秘智から見れば可知の世界である。明目者が盲目者の全く知らぬ世界を見て居るやうに、神秘智を得た人は理知主義の認識論者の全く知らぬ世界を認識して居るわけである。私は斯る世界を神秘世界と名ける。此の世界では無盡(むじん)の霊が神通的に活動して居るのである。
上の如く私は神秘世界の存在を認めたのであるが、併し唯それだけでは満足出来ぬ。更に私は其の世界の光景、即ち無盡の霊が如何に存在し、如何に活動して居るかに就いて研究せねばならぬ。之を研究するに就いて、吾人の相談相手として先づ調べて見たのが西洋の心霊研究家の学説である。所が之は相談相手とするには足らない。第一、まだ学説らしきものが出来て居ない。偶に稍学説らしきものがありても、其の思想が科学の理知主義にねばり付いて居て、心霊独爾の神通と言ふことを殆んど全く理解して居らぬ。神通を理解しないやうな心霊学説は心霊学説としての資格なきものであるから、斯るものは全然吾人の相談相手とするに足らぬのである。
其の次ぎに私の目を付けたのは神秘主義である。神秘主義とは神秘意識を以て認識超越の世界を実覚することであるから、此の主義こそ吾人の研究の相談相手になるものである。そこで段々神秘主義を調べて行く間に、従来會て思はなかったことを発見した。私は以前には神秘主義なるものは西洋でも東洋でも、凡て同一なものであるやうに想像して居た。所が能く調べて見ると決してさうでない。神秘主義には二つの大なる型類がある。一は基督教型で、一は佛教型である。基督教型の神秘主義は人間と神とを対立させ、人間が神秘意識によりて全知全能の神を直覚し得ると説くのである。然るに佛教型の神秘主義には顕教型と密教型とあるが、顕教型では神秘世界には無盡の佛がありて、孰れも菩提(ぼだい)智、慈悲心、神通力を具へて居り、而して人間は誰でも修行によりて自ら佛となると説くのである。然るに密教型の神秘主義になると、無盡の佛の実在を説く上に、更に進んで宇宙は佛を容るゝ単なる空間でなくして、無盡の佛を差別功徳智印として自内証中に統一する所の絶対識性即ち絶対心王如来であると説くのである。基督教型の神秘主義では神を全知全能と見るけれど人間自身に神と同一の菩提智や神通力があるとは説かない。然るに佛教の神秘主義では人間は本来佛性にして菩提智も、神通力も具へて居るから、修行によりて之を顕発して成佛すべしと説くのである。
神秘主義には上の如く基督教型と佛教型との二種ある内で、其の孰れが神秘世界の研究の相談相手となるかと言ふに、それは勿論佛教型である。心霊研究から言へば、人間の霊は本来菩提智と神通力とを具へたものであるけれど、肉身の繋縛(けいばく)に囚はれて居る為めに之を失って居る。だから人間は修行によりて肉身の繋縛を脱して無けい礙(むけいげ)三昧に入れば、本来具有の菩提智と、慈悲心と、神通力とを恢復して佛となるわけである。それで佛は其の身は認識世界に住して居りながら、其の心は神秘世界に通って居るのである。佛教の経典は人間が斯る修行によりて成佛するまでの転勝過程並に成佛後の安楽地たる神秘世界の記録である。心霊研究の事実と経典の記録とは互に相待って神秘世界を語るものである。斯る理由によりて、私は心霊研究の事実によりて佛典を解釈し、其の解釈に基きて神秘世界の光景を叙述することにした。
最後に特に読者の諒解を得て置き度いことは、佛典に対する解釈に於て、私は或る点に於て先輩学者に追従して行かれぬことである。私の主張する所では菩提智と慈悲心と神通力とが佛の三大本性である。従って佛の境界たる神秘世界を叙述する経典を解釈するのには、此の三大本性を基礎とする神秘主義を以てすべきである。理知主義の論理を当て嵌めて之を解釈せんとするのは一種の方便にすぎぬ。然るに先輩学者の大多数は菩提智や神通力をそっちのけにして、理知主義の論理によりて思索さへすれば、唯それだけで佛菩薩の実際地が把握されると思って居たやうに見える。例へば龍樹論師の中論と十二門論との如きは理知主義の論理を極端まで押し進めて萬法皆空を証明しようとしたものである。馬鳴の起信論、護法の唯識論の如きはそれ程でもないけれど、それでも矢張り理知主義の弊竇を脱したものとは謂はれぬ。斯く多数の先輩学者は理知主義を採って居るのに、私は何処までも神秘主義で行かうとするのである。従って佛典に封する解釈に於て自然大なる相異を来すことは已むを得ぬことである。それで私は先輩学者の意見如何に拘泥せずして、私は神秘主義の立場から自由に佛典を解釈した所が多いのである。併し私の解釈は佛教学者の意見とは異って居りても、菩提智を開いて神秘世界に直到された佛菩薩の実際経験とは反りて一致して居るに近いと私かに信じて居る。
併し私は敢て本書によりて佛菩薩の境界を十分に闡明(せんめい)し得たなどゝ誇称するのではない。佛菩薩の境界は廣大無邊にして、吾等凡夫を以てしては、考へれば考へる程、難解不可思議の密雲に閉ぢ込められるばかりである。唯、私は単なる理知主義の論理によりて固められた佛教哲学なるものが、佛菩薩の実覚智から余程遠ざかって居ると言ふ感じに促されて、菩提智、神通力、慈悲心を根柢とする神秘主義の立場から、雲と雲との切れ目からほの見えた大龍王の片鱗を指示したにすぎぬのである。
昭和七年仲秋