第二編 心霊現象
第一章 透視
明治四十三年二月以来、私は十人の霊媒に就いて神通現象を研究した。其内、一人に就いて透視だけを研究し、四人に就いては念写だけを研究し、他の五人に就いては透視と念写とを併せて研究したのである。此等の研究結果の詳細なる報告に就いては、別に英文で一書を著はし、英国ロンドンの書肆から発行したから、爰では唯研究結果の一部だけを記述するに留める。
第一節 御船千鶴子嬢の透視
御船千鶴子嬢は私の研究した第一番目の透視能力者であると同時に、心霊研究界に最も豊富にして確実なる実験を遺した人である。
第一 透視能カの発現
彼女の透視能カは其の義兄に当たる清原猛雄氏の催眠術によりて誘導されたものである。清原氏は明治三十六年から熊本市で催眠術の研究に従事して居た。或る時、氏は千鶴子に催眠術を施し、睡遊状態に導きて、透視の出来ることを暗示したのであった。恰度、日露戦争の際、例の常陸丸が敵の為めに撃沈された当時のことである。清原氏は彼女に催眠術を施し、そして同船に第六師団(熊本師団)の兵士が乗り込んで居るや否やを透視することを要求した。其時、彼女の答へは次の如くであった。
第六師団の兵士は一旦長崎を出発したけれど、途中故障ありて引き返し、常陸丸には乗り込んで居ない。上の実験ありて後三日目に、第六師団の出征兵士から熊本の家族へ通信があった。それによると、上の透視が全く事実と符合して居るのであった。四十一年七月に至りて、清原氏は千鶴子に向って、深呼吸を行って無我の状態に入らば、萬物悉く透視が出来ると言って、深呼吸を行ふことを彼女に勧めた。彼女は此の言葉を堅く信じて毎日熱心に深呼吸を行ふのであった。斯くすること十日程に及んだ時のことである。或る朝、彼女は何気なく庭前の梅樹を見て、其幹に長さ二分位の虫が数匹居ると言ひ出した。家人等は樹の傍に近付いて見たけれど、虫は一匹も居ないのであった。然るに千鶴子は飽くまで虫が居ると言ひ張り、樹皮を剥ぎ去りて、能く検査すべきことを主張した。そこで家人等は彼女の言ふ通りにして見た所、果して樹皮の下に数匹の虫が居たのである。
上の二件によりて千鶴子嬢に透視能力のあることが始めて証明された。其後、清原氏は多数の実験を重ねるに従ひ、彼女の能力の卓越せることが、益々明白となって来たのである。例へば其内には次の如き実験があった。清原氏は半紙半分に切りたる三枚の紙片を取り出し、一枝には「新式療法完成せば天下萬民の幸福なり」と二行に書き、次の一枚には「精神一到何事不成」と二行に書き、次の一枚には或る文句(清原氏は忘却せりと言ふ)を書き、三枚共に第一図点線の如く折り畳み、状袋に入れて、彼女をして之を透視せしめたるに、三個の内にて第一、第二は全然的中し、第三の句は意味丈け適中した。
私は千鶴子嬢に斯る不思議の能カあることを知り、或は単独にて、或は京都大学の今村博士と共同にて多数の実験を行って見た。その実験は実に七十余回にて、而も其結果は非常に優良で、透視能力の疑ふべからざることを証明するに足るのであった。実に千鶴子嬢こそは神通能力の実在を吾人に始めて示して呉れた学術上の最大恩人である。併し私は今爰で、七十余回に亘る実験結果を一々発表することが出来ぬから、唯其内の或るもの丈けを、簡単に紹介することに止めようと思ふ。
第二 通信実験
私が千鶴子嬢の透視能カに就きて、通信法によりて初めて実験を行ったのは明治四十三年二月であった。此の時の実験物は次の如き方法によりて作製せられた。多数の名刺の内から、任意のもの十九枚を抜き出し、其の文宇の全部或は一部の表面、或は表裏両面に錫箔を貼り付け、尚名刺の前面或は前後両面を不透明なる白色カードにて掩屏し、其の全体を封筒中に入れ、其の封じ目には小紙片を貼付し、私の認印を押して厳封した。私は二月二十日、右の実験物を熊本濟々黌の校長井芹経平氏に郵送し、千鶴子嬢をして封入の名刺を透視せしめんことを書面で依頼した。其の時、私は「討入の名刺」と書面に認めただけで、或る文字の表面或は裏面に錫箔を添付しあることや、或る名刺の表面或は裏面を白色カードにて掩屏しあることに就いては、わざと何んとも認めて置かなかった。二月下旬に至り、井芹氏から小包が来た。包装を開いて見ると、試験物と透視結果の報告とであった。私の送った実験物は十九個であったのに、返送されたものは七個であった。而して其の表面には四から十までの番号が書き付けてあった。実験報告は二葉の罫紙に認めてあった。それには一から十二までの番号を記入し、四から十までの番号の下には第二図の如く、実験物に対する透視の結果を認め、一、二、三、十一、十二、の番号の下は白紙のまゝであった。別に井芹氏から送られた書面には実験の模様が報告してあったが、それによると、千鶴子嬢は二月十六日から十七日、十八日と三日間、治療室に閉ぢ籠って実験を行ったのである。十六日には、彼女は一番、二番、三番の実験物を一緒に持ち、火鉢の上に手を差し出しながら精神統一して居る内、思はず睡眠して実験物を火中に落して焼失したのである。十七日には、彼女は前日の失敗に懲りて、火鉢を左側に置き、四番より七番まで透視した。十八日には八番より十番までを透視した。而して十一番から十九番までの九個の実験物に就いては、彼女は疲労した為めに、透視を中止したのである。斯る次第で、彼女は結局、四番から十番まで、七個の実験物だけに就いて、透視を行ったわけである。
透視済みの実験物内容と透視の結果とを対照すると次表の通りである。
上の答案を見るに、霊能者は実験物の名刺に添付したる錫箔を、黒紙と答へて居る。斯る答えは誤謬と言へば誤謬であるけれど、元来私が名刺に錫箔を貼付した目的は、彼女をして鰯箔其物を透視せしめんとすることではなくして、錫箔で掩屏された文名を透視せしめんとすることであったから、答案の正不正は唯文字を正当に透視したるや否やによりて定まることで、錫箔其物の透視には関係せぬことである。斯る条件の下に、透視の的中不的中を判断すると、次の如き結果になる。
(四)完全的中。
(五)完全的中。
(六)井を水と誤る。其の他的中。
(七)完全的中。
(八)塚をと誤る。其の他的中。
(九)恭を忝と、穰をと書き誤る。其他的中。
(一〇)恭賀新年と桑田とを透視したるも、恭を忝と書き誤り、芳藏を分明に見えずと答へ、住所を見落す。
上の結果によりて、私は千鶴子嬢には慥に透視能力あることを信じた。仮令答案に書き誤りがありても、それは透視能力の存在を否定するものではなく、他の事情から生じた偶然の結果にすぎぬと思はれる。これが、千鶴子嬢に関する私の最初の実験である。
第三 今村博士との共同実験
明治四十三年四月十日から五日間に亘り、私は今村博士と共同にて千鶴子嬢の透視を研究した。実験の場所は清原氏の住宅で、立会者は清原氏、今村博士と私との三人であった。
実験に使用した室の模様は第三図の通りである。第三図中のAは精神療法を行ふ治療室である。千鶴子嬢は透視する時此室に入りaの位置に於て北に向って端坐し、実験物を手に持ち、両眼を閉ぢ、深呼吸を行って精神統一に入るのであった。そして透視が出来れば精神統一を出て、其の見たる所を紙に書くか、或は室を出で、清原氏に告知するのであった。精神を統一する為めに要する時間は、其時の気分の良否によりて長短あるわけだが、大抵五分乃至十五分であった。十五分以上の時間を要する時には、結果は大抵不良であった。今村博士と私とはB室に居り、AとBとの間の襖を開放し、背面から千鶴子嬢の一挙一動を十分に注視して居た。だから、我等は彼女の手許を正面から見て居なかったけれど、彼女が実験物の封を破りて其の内容を見、そして再び元の通り封じて我等を欺くやうなことは断じて有り得ざることである。
上の如き事情の下に於て、十七回の実験が行はれた。其内で僅に四回丈けが不結果で、残りの十三回は完全に的中したのであった。(後略)
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