第四章 心王命我と心数命我
先づこれで命我の常住論は終ったが、之に付いて尚爰に一つの問題が生じて来る。それは此の命我の存在に始めがあ
るか無いかと言ふことである。換言すれば、命我は無始以来の存在者であるか、或は一定の時から現はれた存在者であるかと言ふことである。佛教では有始有
終、無始無終と言ふことが斯る問題を解決する公理となって居る。有始有終とは凡て物の存在に始めあるものは終りあると言ふことである。無始無終とは物の存
在に始め無きものは終りなしと言ふことである。そこで、佛教では一切萬法を因縁生にして有始有終と見て居るから、其の萬法の一なる命我も亦因縁生にして有
始有終なる無自性のものと見るとになって居る。例へば起信論の真如縁起論の如きがそれである。之によると
宇宙の根本原理は真如で、それが縁に触れて萬法を流現するが、縁が止むと共に萬法は其の姿を失って元の真如に帰入して了う。物に譬へて見れば一水萬波であ
る。水は風の縁に触れて萬波を挙げるが、併し風が止むと同時に、萬波は其の姿を失って元の一水に帰入するやうなものである。それと同様に、萬法は縁の止む
と同時に無相真如に帰入して了う。だから真如は無始無終であるが、萬法は有始有終にして無自性である。経に就いて言へば、華厳経の如きが萬法無自性説の代
表者である。所が大日経では此の真如に相当する根本実在は阿字を以て表示されてあるが、此の阿字から発現する萬法に就いては、端なくも無自性説と守自性説
との二解釈が対立するに至った。無自性説は印度の善無畏によりて代表せられ、守自性説は弘法大師によりて創始せられて、真言密教の宗義となって居る。
善無畏は阿字を無自性空或は無相一心の宇宙原理と立て、それから一切萬法を流現すると説くのである。然る
に大師は阿字其物を直に六大と見られた。而して此の六大は守自性の実在で、宇宙の一切萬法を構成する要素となって居る。六大は渉入無碍して無盡の色心不二
の霊体、即ち衆生の菩提心となる。六大が守自性の実在だから菩薩心も矢張り各々守自性の実在である。だから一切衆生の菩提心による生命活動は因縁所生の無
自性的仮現ではなくして、実在の本有本誓から発現した自建立の三摩耶身である。
上の両説は古来真言密教史を流れて居る調和すべからざる二派となり対立して居るのであるが、併し此の両派
は各真理を有するものであるから、双方両立し得るやうに第三の調和説が立てられると思ふ。私は心霊研究の立場から次の如く解釈するのである。
阿字其物が本来に於て色心不二にして無始無終の心王命我である。それが自発的に無盡の命我を流現し、更に
其の命我が無盡の命我を流現する。以下之に準じて重々無盡の流現が行はれて、不可説無盡の心数命我が生み出されるわけである。其の過程は全く華厳の無盡縁
起と変わらない。併し爰までは善無畏と一致して居るけれど、それから後が異なって居る。善無畏の無自性説に於ては、阿字と萬法との関係は一水萬波である。
波は風縁によりて出来たものだから、縁の止むと同時に消滅して一水に帰入する様に、萬法は縁によりて阿字から流現したのであるから、縁の止むと同時に、消
滅して元の阿字に帰入する。即ち萬法は無自性である。所が、心霊研究から見ると阿字から流現した一切の命我は、再び元の阿字に帰入することなくして、永久
に個別の儘で常住する。而も過去不滅であるから、重々無盡の流現によりて阿字から生み出された無盡の命我は、個別の儘で悉く本不生の普遍的阿字を執蔵して
居る。だから無盡に別れて居る個別相は現象上のことで、其の実在方面に付いて言へば、根元の平等的阿字の内に容恋されて、一多円融となって居る。今此の意
昧を図で表示すれば、第七十八図の通りである。大円は本不生阿字を示す。それが分れてA、B、Cとなり、更にそれが分れて、d、e、f、g、h、i、j、k、l
となり、更にそれが何処までも分れて重々無盡である。併しA、B、Cは分化した儘で阿字の内に居る。d、e、fは分化した儘での内に居る、従って阿字の内
に居る。以下之に準じて、どんなに無盡に分化しても一切の心数命我は本不生の阿字を自身の内に執蔵して居る。否、本不性阿字の内に浸されて居る。斯くて無
盡の心数命我は本不生阿字を本具した儘で、各々守自性の実在として永劫に常住するわけである。此の無盡の命我が即ち六大である。だから色心不二の心数命我
は其の根元は阿字から流現したものであるが、併し一旦流現した以上、元の阿字に帰らないで、平等の阿字を本具した儘で、守自性の個性的実在として永久に常
住するものである。だから心数命我は無始無終でもなく、亦有始有終でもなくして、有始無終である。だから吾人が唯吾人の個性的自我のみを知りて、其の根本
に於て心王阿字たるを知らぬのは、吾人の識性が肉身の繋縛に囚はれて其の菩提智を失った為めである。若し
肉身の繋縛を脱して絶対識性を恢復すれば、吾人の自我は直に心王阿字であることを実覚するに至る。之を真
実智と名ける。大日経の阿闇梨真実智品第十六に次の如く説いてある。
我即ち心位に同じ。一切処に自在なり。普く種々の有情と及び非情とに遍す。
心位とは心王阿字である。吾人の心数命我も三密加持して肉身の繋縛を超越すれば、心王阿字と同位に向上して、一切所に自在となり、生物無生物を包容するに至ると言ふのである。
上の様なわけであるから、吾人の心数命我は一方に於ては心王阿字と本質連なり居りながら、他方に於ては生
衝動として物質に恋して居る。此の恋の結果、肉身を創造して之に執着する時は、吾人の命我は向下して本具神通力を失って、物理的法則の支配する現象世界に
対だ堕在して煩悩の生活を営むやうになる。之に反して肉身の繋縛を超越して心王阿字に帰る時は、吾人の命
我は向上して菩提智と慈悲心と神通力とを恢復して佛陀となる。だから命我を単なる無明の迷ひとして、之を
見限りてはならない。菩提心が肉身に繋縛されては煩悩となり、煩悩が肉身の繋縛を超越すれば菩提となる。即ち煩悩即菩提である。
それで吾人の主張する神秘主義に於ては、善と悪とを相対する二元とは見ないで、同一原理の異りたる現はれ
方と見るのである。基督教では、神の摂理し給ふ此の世界に、悪魔の存在するのは何故かと言ふ問題の解決に窮して居るやうに、佛教学者は真如と無明との関係
の説明に困って居る。其の困り方が起信論に於て遺憾なく現はれて居る。起信論では一心真如が萬法を流現すると言ふのだが、それには無明の縁を必要とする。
真如の水が無明の風に誘はれて萬法の波を揚げるのである。然らば其の無明は何処に在るかと言ふに、それが困難な問題である。無明は真如の内に在りとは言は
れない。何故なら、真如は真理と定められてあるから、無明の迷ひが其の内に在る筈がないからである。併し無明は真如の外に在りと言はゞ、真如と無明とが宇
宙の対立する二原理となりて、起信論の真如一元論が破れて了う。だから無明は真如の内に在りとも、外に在りとも確言することの出来ない曖昧なものとなって
居る。吾人の考ふる所では、斯る困難は学者が理知主義に囚はれて居る為め、善と悪との抽象概念を直に実在であると誤想した結果である。吾人の命我は単なる
善でもなく、亦単なる悪でもなく、善と悪との傾向を具へた善悪不二の実在である。即ち肉身に執着すれば利己的欲念の煩悩となり、それを超越すれば大悲菩提
心となる。だから単なる善とか、単なる悪とか言ふものは、抽象的概念にすぎぬもので、事実としては無いのである。事実として存在するものは善悪不二の命我
で、悟れば佛となり、迷へば鬼となる。所謂十界互具で佛の胸に鬼が住み、鬼の肚に佛が宿るのである。