「心霊と神秘世界」の内容について

 

       理事長 黒田正典
(文学博士、東北大学名誉教授)

  一 論述の構成と福来博士の基本的態度

 本書は初版が一九三二年の、福来先生の最も体系的な著作である。

 いま大まかにその組み立てを見ると、全巻五七三頁の内、前半二五五頁(第一編、第二編)は心霊研究に直接に関係し、まず世界における研究の歴史を概観し、次いで先生の研究も含め各種の心霊現象を叙述するものである。この部分は心霊現象、超心理学の研究者あるいは能力開発実習者にとって直ちに参考となるものである。

 この書の後半(第三、四、五編)三一八頁は超心理学者・心霊研究者に必要な哲学概論・宗教学概論ということができよう。一般に科学的研究者たると実践的研究者たるとを問わず、超常現象の強力な発現を専ら希求するのが常であるが、これは一考を要する。研究をどの方向にもってゆくべきかは、深い意味での知的判断が決定するものである。例えば、時にマスコミを賑わす宗教的団体の紛争あるいは反社会的な経営は、哲学的・宗教学的省察(倫理的反省を含め)の欠陥にもとづく躓きではなかろうか。

 ここで福来博士の基本的態度の重要性が痛感される。先生は「菩提(ぼだい)智と慈悲心と神通力とが仏の三大本性」(序)であるとして、この三大本性を基礎とする「神秘主義」をもって仏典解釈の基本的態度とされたのである。この三大本性は平たくいえば、認識・人間性・超能力といってもよいであろう。福来先生はこの三つの性質から成り立つ「神秘主義」の立場に立ち、神通力抜きの「理知主義」の仏教解釈−中論、起信論、唯識論等−を批判したが、認識・人間性・超能力の三要件は現代の超心理学研究にとっても重要な基準であるといわねばならない。

 このように考えると、心霊現象・超常現象に対する直接の研究と並んで、哲学的・宗教学的基礎研究が重要であり、本書後半の味読を皆様にもおすすめしたいのである。この後半は、神通力の意義を菩提智・慈悲心の背景から明らかにする論述だからである。

 二 前半と後半それぞれの特徴

 まず第一編「緒論」は心霊研究の歴史を述べた後、著者の基本的立場、神秘主義について詳論する。神秘主義は「序」においても論ぜられたが、多少違った側面も取りあげられているので、両者を双互、読み合わせるとよい。第二編「心霊現象」は超常現象の各種について解説する。この内、透視と念写は全部先生の扱った実例で述べられている。念写は全く福来博士の発見である。心霊写真は英国のホープ氏との協同実験である。そのほかの種目としては霊の幻化(外国の諸事例のほか三田氏のものもある)。念音、念像、念動、霊の物質化(いずれも外国の事例)があげられている。

 第三編以降は私のいわゆる哲学概論・宗教学概論である。大学で講義されるオーソドックスの哲学概論・宗教学概論は超心理学研究にとってはさほど重要でない問題も扱わねばならない。しかし本書で言及される哲学的・宗教学的知識は超心理学学習者にとってはいわば試験問題とするに値するものばかりである。以下、これを摘記しよう。哲学については哲学者名、事項、頁を示す。ほぼ時代順とする。ソクラテース、プラトー(これら以降の哲学は理知主義で誤れる追跡)二九六。デカルト(哲学の基礎、思う故に我あり)二五七。ロック派(観念常住説)三二九。ライブニッツ(単元、予定調和)四六八−四七〇。ヒューム(自我は感覚知覚の塊)四一五。カント(「我思う」ということが認識を成立させる)二五八。同上(人間は感性世界と本体世界の両方にまたがる)五二八。ヘルバルト(観念常住説)三二九。ショーペンハウエル(厭世観)三六三。ハックスレー(意識は身体運動の随伴現象)四九八。グリーン(道徳意志は願わしきものとして与えられ、説明不可能)五一七。ジェームス(有限精神は超人間的智恵の内)二九七。同上(知覚の背後、意識の流れ)二六七。ハルトマン(現世・来世とも幸福なし)三六四。ロイス(絶対的唯心論)二九三。ベルグソン(事物の意識は脳の中でなく事物の所にあり)二八五。同上(脳は記憶の貯蔵器でなく、記憶を呼び出す機関)三三七。同上(直覚は哲学体系より価値あり、直覚の確認と普及が哲学の目的)二九六。

 以上は後半において引用された哲学者とその哲学的思想の要点である。これらは福来博士の仏教学を組み立てる素材となっている。そしてこの仏教学が同時に先生の宗教学ともなっているのである。

 三 福来博士の仏教学的宗教学
 
 本書の後半は、博士の「神秘主義」の立場からの仏教学であるが、心霊研究という目的のためのものであるので、視野は仏教以外の印度や西欧の心霊思想・宗教思想にまで広がり、単なる仏教学より広い宗教学になっている。したがってキリスト教の神秘主義や宗教体験にも考察が及んでいる(序、第五編第三章)。ただし仏教以外の宗教の教義はその説明を省いているので、仏教学的宗教学ということができよう。ここで引用されている人名と事項と頁を本書での出現順で一覧しよう。

 ウパニシャッドの賢者、ヤージュニヤワ゛ルクヤ(識我それ自体は認識され能わず)二五九。聖テレサ(神人融合の三昧)五四二。インド哲学者、ラマチャカラ(宇宙の究極の実在は霊)三○四。スウェーデンのスウェーデンボルグ(無数の霊が天界を形成)三四一。ユダヤ王ソロモン(人生の無常を悲しむ)三六二。ドイツの神秘家、ヤコブ・ベーメ(魂は生れた故郷に憧れる)三六五。トルストイ(生死の問題に悩む)三七三。綱島梁川(見神実験)五四六。聖バーナード(神との一致)五五一。ドイツ神秘主義を開いたエックハルト(萬物煌燿(こうよう))五五一。パウロ(光明に打たれ失神)五五二。米国、ブッケ博士(萬物煌燿)五五二。米国、フィンネー氏(光明経験)五五二。(なお氏名不詳の人の例は省略した。)

 次に仏教学的宗教学の内容を難語解説の形で紹介してゆきたい。

「識性」(第三編、第一章の題名)

 わかりやすく説明しよう。例えば「私はテレビを見る」という場合をとろう。ここで「見る私」が識我である。識は知ることで、見る、聞く、味う、わかるなどを代表する語である。そういう知る私が識我で、また「識性」とも同じものだ、と福来博士はいう。識性は知る働きである。

 それなら知る私はいったい何か。今テレビを見る私は、特定の生育歴、履歴をもつ人間で全く明瞭で疑問がない。ところが、この「私」は「今テレビを見ている私」を見ることができる。すなわち「は、私が今テレビを見ているな、ということがわかる」のである。(「がわかる」の代りに「を見る」、「を知る」と言っても同じである。)傍点のも福来博士はやはり識我とよぶ。こちらのはなかなか見れない(わからない)。そこで哲学の主流派は、こちらのは「不可知」であり、「仮定」だとする。カントが認識のため必要とした「我思う」の我もこのである。このを哲学は純粋自我とよび、個人的履歴をもつ我と区別するが、福来博士は同じ識我とする。そしてこの識我(=識性)は「一切処遍在、一切時常住にして不生不滅不変不動の実在」(二七四)であると宣言するのである。前述、個人的履歴をもつ我を博士は「小我」とよぶ。小我も元来は「誰でも悉有仏性」だから、「修行すれば絶対識性を回復」するのであり、これが宗教であり、また「経験的事実」なのである(五三五)。

 識我に対するものが、生きんとして活動する我、命我である。現代語で平たくいえば、意識的自我に対する身体的自我である。この命我は、「脳膸(のうずい)の神経細胞を超越し、それ自身として永劫不滅の存在を持続する」のである(三四〇、第三編自我、第二章命我)。第四編神秘世界、第五編霊と生命がこの後、展開されるが、後の通読は可能であろう。
  次に意味はわかりやすいが、意義すなわち深い意味は難しい言葉を見ておこう。

「天眼(てんげん)と肉眼(にくげん)」(第四編第二章第一節)

 ここで肉眼は通例の感覚・知覚で、現代生理学・心理学が調べ尽くしている。天眼は神通力、すなわち超能力である。例えば透視もその一つで、福来博士はその実験的研究を数多く行った(三九四)。しかし先生の研究は、世人には不思議な超常現象の真実性の実験科学的証明ということだけの意義に止まるものでない(多分、現在のたいていの超心理学的研究はこの立場である)。しかし進んだ実験的研究は、何か証明したい「仮説」をもち、それを実験的に検証するものである。先生の実験の仮説は、「一切万物は空である」という仏教の教えである。透視する霊の働きにとっては、物の障壁も通り抜け、透視したい物の遠近も全く関係ない。すなわち霊は物理的法則を超越し、物理的存在である物はすべて空であることを証明するのが、実験の目的であった。

 次に霊能開発の実習者にとって天眼の深い意義を博士が詳しくさまざまに述べていることについて、広く注意を喚起したい。超能力が現れると、それだけで人生の達人になったように感ずるのは自然の人情である。しかしその奥の意義がある。その一は衆生済度の方便の意義、その二は肉眼の知覚世界以外に神秘世界のあることを人間に教えることである(三八九)。福来博士はとくにその二を強調する。すなわち私たちは「万法皆空を直々に直覚自覚」しなければならない。具体的には「無けい礙(むけいげ)」(障壁の解消)である。世人と自分の間、そしてあらゆるもの(万法)の間が無けい礙となると、万法皆空の直覚に達する。そこに宇宙のことすべてがわかる「一切視」が実現する(三八九)。つまり修行は一切視の次元まで進まねばならない。
  そのほか即身成仏と神人融合・万物煌燿・神人交霊に言及したかったが、長くなるので割愛する。諸者諸氏の玩味を期待したい。

  ※以上は福来友吉著「心霊と神秘世界」復刻版(福来出版)あとがきの黒田所長の文章を一部削除して転載したものです。(編注)

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