弘法大師御真影の頒布

  
財団法人福来心理学研究所

    このたび標題のお写真を、かねてより関係者の要望もありまして、広く頒布することにいたしました。当研究所は、念写を発見した大心理学者、福来友吉博士(1869〜1952)の業績を記念して創立された超心理学の研究所です。念写というのは、能力者が写真の乾板とかフィルムに向かって念ずると、念ぜられた形、文字、人物像などが感光し、現像した時それが現れるという現象です。福来博士はもともと催眠を研究なさっていましたが、催眠状態の人が透視の力をもつ場合があることに気づいて、透視の研究に入りました。透視は、肉眼では見えない所にあるもの、例えば他の物に遮られている物、遠くにある物、遠い過去や未来のことなどを知る働きです。ところが、福来博士は、透視の能力をもつ人は、念写の力もあることを発見しまして(190)、以後、念写の研究に専心されました。透視と念写に関係深い現象は心霊写真で、霊界にいる人の姿が写真に現れる現象で、霊能力のある人が写真をとると生じ、あるいは霊界の魂自身の力で生じたりします。福来博士は長い間、透視・念写・心霊写真等について研究され、超心理学の権威としての国際的地位は不動です。この度の弘法大師の御真影は、これらの現象が関係しあって生まれたものであります。弘法大師は僧空海(774〜835)の贈り名です。贈り名(諡)は生前の徳、行いを表す名前で、大師は名僧、高僧の徳をたたえ朝廷から贈られる称号です。しかし弘法大師が心霊写真に現れた時は昭和5年3月16日(1930)で、実に1095年も前のことです。もちろん写真機はない時代ですから、この御真影写真はまことに不思識な心霊写真であります。これがどのようにして現れたか、そして本当に大師の御真影であることを、以下、ご説明します。
 
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「弘法大師像」大判24×29、普通判18×23
福来博士ご自身の著作「弘法大師の御霊影」

〈頒価〉 大判 15000円(送料610円)  普通判 12000円(送料610円)


 


   京都市上嵯峨の亀山御陵のそばに船形屋敷とよばれた400坪ほどの土地がありました。大師の心霊写真の現れた昭和5年から30年ほど前までは、田中作治郎氏の所有でした。田中氏の家は代々、大師が伝えた硯の作り方を守る硯製造業でした。作治郎氏はこの土地を実弟の元次郎氏に与え、元次郎氏はこれを他人に売り、やがてその土地は京都の染物工場主の花村万寿治氏の所有になりました。
   ところが、2年ほど前から不思議なことが現れ始めました。花村氏はこの土地に隠居宅を作って住んだら、病気になったのです。氏はそこを立ち去り、京都の心霊治療家の薄出然道氏の治療で全快しました。しかし次の住人、荒木氏の老母が重い精神病になりまして、よそに引っ越しました。何かの崇りかと近所の評判になりました。
   地主の花村氏は薄出氏に、自分の病を治してもらったことへの感謝の意も兼ねて、家賃無料でそこに住んでもらい、そこで開業してくれるよう頼み、薄出氏も承諾しました。ところ転宅した1月7日のことですが、夜中に目が醒めますと、敷地の10畳敷きほどの方形の範囲に白光が漂っていました。不思識なことに雨戸が閉まっているのに、それが見えるのです。次の日も同じことがありました。これはただ事ではないと感じた薄出氏は、知人の紹介で三田光一氏に透視を依頼しました。三田氏は長い間、福来博士の念写研究に協力した能力者です。三田氏は、1月23日にそこに来て透視を行うことを約束しました。
   ところが、氏の関係している会社のやむを得ない用件で、初大師の1月21日に早まりました。初大師は新年最初の弘法大師の縁日です。縁日は神仏の供養や祭りをする日です。この「初大師」のことは三田氏も薄出氏も全く知っていませんでした。さて透視は、この敷地の中の花村氏の隠居宅で、薄出氏、花村氏、写真師として知られた浜 豊彦氏を含む数人が立会いました。透視は午後3時に数分にして完了しました。
   その結果この地は、なんと弘法大師が嵯峨天皇の御悩平癒のため、高野山から神の御霊をここに移し奉り百か日の祈祷を行った霊地だったのです。なお、特筆すべき出来事は、透視の最中、大師のお顔、お姿がありありと三田氏の前に現れたことです。
   三田氏は、霊感したこの地の詳しい史実の記録を薄出氏に与えました。福来博士はこの記録と、権威ある文献、望月信亨著「仏教大年表」や福井三郎著「宝祚大典」と比較検討しましたら、霊感した史実は悉く−致しました。なお「宝祚」は皇位のことです。
   なお、問題はこの屋激の住人がなぜつぎつぎに病気になったかです。大師の霊のせいとは、そのご人格から考えられません。そこには、ある白狐に関する悲しいお話がありました。前述の田中作治郎氏の6、7歳ごろ、白狐が敷地の野外テープルにやってきて、夜明け前に京都のほうに帰ることが続きました。ところが途中である男が犬にけしかけ、白狐を殺させたのです。屋敷内に塚が立てられ、明神様としてまつられましたが、後から土地を買った地主は塚を壊しました。上記の男はまもなく死に、新地主の一家は3年内に死に絶え、白狐の祟りが噂されたのです。
   霊地としての船形屋敷は秘密にとどめるべきでないと考えられ、発表講演会が3月16日、三田氏と福来博士を講師として嵯峨公会堂で開かれました。なお、念写の実験の予定も案内状につけられ、教師など400人が集まりました。念写の題目は参会者との協議で、大覚寺の心経殿とし、1ダースの乾板の6枚目に念写することになりました。福来博士はそのほか、大師のご尊像の出現の予感も告げました。実験は3時過ぎから行われました。短時間で念写は終り、現像の結果、6枚目には何も出ませんでした。そして7枚目が真っ黒に感光していました。福来博士は、6枚目は何も出ず7枚目だけが感光することは、通例はありえないことであると説明しました。すると前述の浜氏が「これは霊の力が強すぎたためで、薬品で減力すれば、姿が出るはずだ」と申し出ました。そこで写真師と浜氏はその薬品処理をしましたところ、大師のご肖像が現れたのです。そしてそのお顔・姿は、1月21日、三田氏の透視の際に現れたものと全く同じでありました。
 
   福来博士は、御真影出現の経過、歴史的文献との一致等から、真の大師のご肖像と結論し、長らく霊魂不滅の実験的証明の方法を模索してこられた博士は、その目的が達成されたことを確信されました。
 
 
 
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