福来先生沈黙の謎とその後の展開
星猛夫 理事
「沈黙の謎」という題名は研究所内部の方、以外には解りにくいかもしれません。実は月の裏の念写につきまして福来先生は長い間、沈黙を続けておられましたので、その辺の事情につきまして、講演といった堅苦しいお話ではなく、興味ある話題といった形で発表したいと思います.まず題名の「謎」に入る前に、どうしても私と先生の出会いから始めないと、解りにくいようです。 私は戦時中の昭和18年10月、東北大学の学生になりました。私はほかの方より遅れて大学生になったのです。黒田さんは虚弱で兵隊にとられず、早く大学を卒業でき、中沢さんは大学を出てから応召、中国で連戦なさったのです。この20年3月には東京大空襲あり10万の死者が出て、仙台には7月9日夜から10日未明にかけてB29が120機来襲、仙台市はほぼ壊滅の状態になりました。8月15日には終戦になりましたが、大学も開店休業の状態でした。私は9月に卒業して大学院に進みました。こういう状況下、大学の各学部、各学科で「図書交換会」ということが行われたのです。 私はたまたま工学部の図書交換会にいったのですが、工学部でのことなので、私の専攻の生物学の本はありませんでしたが、珍しくフェヒナーの訳本で「心霊学」という本があり、驚いたのでした。そしてその交換会の係をしていたのが中山栄子さんでした。この方は後に本研究所の理事になられましたが、二人はいろいろと心霊の話に入りました。中山さんは、土井晩翠先生と親しく、先生がご子息を早くなくされたことを機会に、盛岡から小林夫人を招きたびたび催していた招霊会にも、出席していました。そして私の理学部在籍を知り、理学部には白川先生(後に研究所初代所長)がいること、また仙台には福来先生もおいでだということを教えてくれました。福来先生のことは雑誌「心霊と人生」を通してよく知っていました。土井先生、福来先生ここにありということで、私は心霊研究興隆の胎動を直感しました。大学関係者には関心をもつ人が少なからずあり、黒田さんは心理学科の職員であり、さらにその弟、正大氏は精神医学を志している医学生、その友人の本山君とともに心霊研究に関心をもっていました。そうこうするうちに中沢氏が復員、生物学教室の大学院生となり、また浅間一男氏(後に本研究所の初代管理人、さらにその後、国立科学博物館教授、日本心霊科学協会会長)は地質学科の副手でした。 中山・浅間・星の三人は緊密な連携のもとに白川先生と連絡しつつ、心霊科学関係者の顔合わせが黒田氏宅の二階で行われました。その時の写真はご覧のとおりです(写真略/編注)。そこには志賀潔先生も参加しています。志賀先生と晩翠先生は子どもの頃からいわゆる竹馬の友で、やはりご長男を亡くされ、それが縁で晩翠先生と親交がありました。晩翠先生は二高教授であられ、福来先生は二高出身ということで、親交のきっかけができたのです。これらの人脈が基礎になって、まず長谷柳絮学校を会場に東北心霊科学研究会の結成式が昭和24年5月22日に行われました。この時の写真は、先生の主著「心霊と神秘世界」復刻版(昭和57年、心交社)に付けられた付録「解説研究編」全36頁に寄せられた初代所長白川勇記博士の「福来心理学研究所の歩み」に出ております(同上書、35頁)。中央に先生ご逝去3年前のお姿があります。この後、昭和26年12月に私は新潟大学に赴任しましたが、そのとき黒田さんはすでに昭和24年7月から、所属は別でしたが同大学に来ていました。他方、中沢氏も26年12月から山形大学に勤めることになりましたが、岩沼市に住み、そこから山形に通勤しておりました。中学時代は樺太にもおられたそうですが、外地の経験者はタフなところがあるのではないでしょうか。浅間さんも福島から仙台に通い、タフな方ですが、満州の生活経験者なそうです。そして中沢さん、浅間さんは土曜・日曜は研究所に来て、杉山さん(現顧問)とともに実験やら資料整理などをしていました。 さて私は昭和58年に新潟大学を定年退官し帰仙しましたが、この頃からあの「謎」の問題と関わりあうことになります。(黒田さんはすでに昭和42年末に東北大学に転任していました。)この時に福来心理学研究所報告第1号「念写実験の吟味」(昭和56年改訂版、初版は昭和36年)に接触したのです。初版は見ていませんでしたので、ここで初めて月の裏念写実験があったことを知りました。この報告書は、先生の原著と実験に関する記録・メモ等の資料の集大成ですが、どうしても解らないことがありました。 というのは、「念写実験の吟味」 (以下、単に「吟味」とよぶ。)22頁に実験70として出ている月の裏面の実験は福来博士自身のより昭和6年に行われたものであるのに、このことは翌昭和7年に出版された「心霊と神秘世界」(心交社版)に記載されておりません。ずっと遅く昭和27年に、博士はこの実験を報告する英文論文のタイプライター浄書を中沢氏に依頼します。さらにその後の昭和36年版「吟味」の文献欄に、その論文の題目(Study on Nengraphy)が出されました。 先生にはこの月の裏面念写の発表に対しては何かこだわりがあり、かくまでも隠忍自重したのは、いったいどういうわけだろうか。先生は科学者としてなにらかの証明を求めていたと考えられます。福来博士談として「吟味」には「単に能力者の観念に形づくられていた想像図が念写されたのだろう。」とも書かれています。この点で先生が確信をもてるようになったのは、ずっと遅く仙台に移ってからです。念写に協力した三田氏の遣族は、彼の行った実験に関する資料一切を先生に寄贈しました。その中には昭和8年に岐阜市の公会堂で岐阜新聞社主催の公開実験で得られた月の裏面念写がありました。この実験会でも三田氏が念写したのですが、先生はそこにはおらず、全く関与していないのです。 そこで先生は、昭和6年に大坂府箕面のお宅においた乾板に、40km離れた須磨から三田氏が透視した月の裏念写と、昭和8年版の月の裏面念写とを比較しました。すると後者がより鮮明でしたが、図柄は完全に一致していたのです。 先生はかねてから、いったん「念」が形成されると、同じまま存続するという理論をもっていましたが、昭和6年と昭和8年に同じ念写が反復されるという「反復念写」の出現は、それを証明することになりました。三田氏の単なる想像図ではなかったのです。 これに勇気を与えられた先生は、英文の報告書を書き中沢氏にタイプを依頼、その題目が初版の「吟味」の文献欄に記載されたのです。ただしその出版社とか掲載誌は記されないままで、単にそういう論文があったということだけの公表だったのです。これに気がついた私は中沢氏に問い正して、研究所のどこかにあるということで、私は所内を隈なく探してついに発見しました。私が新潟から帰仙した昭和58年か59年の頃でした。 この貴重な論文の存在をうやむやにはできないと考えて、研究所の正式の機関誌の公表に向けて、白川所長・中沢・黒田・星の4人は何度も集まり、この英語論文の研究と編集の作業を進め、「福来心理学研究所研究報告」第3巻に掲載しました。 以上は月の裏面念写についての福来博士自身執筆の英語論文が機関誌発表となるまでの経過でした。さてそこで、改めて月の裏面念写にからまる「謎」の諸点と、それらがいかに解かれていったかについて改めて点検してゆきましょう。
先生が実験後、即時発表を渋られたのは、月の裏を誰も見た人はなく、念写の真偽を判断できなかったためのようです。それには東大仕職時代、透視・念写の社会的発表が先生や能力者に対する批判・迫害を招いた経験が結びついたことは確かです。かなり確りした根拠ができたらと思われたようです。親しい人たちとの間でも、話題にはお出しになりませんでした。たとえぱそのころ若かった私たちが「勝手連」と称して、東六番町のお宅にあがってコーヒーを頂戴しながら、先生と自由な議論をかわしていましたが、ついぞその話は出ませんでした。この問題については傍観的とさえ見える態度でした。 しかし月の裏を三田氏の想像といえるほどに、三田氏に怒意が働いた可能性もありません。霊能者というものは常に他の人の依頼に応じて能力を働かせるのが常道だからです。先生の論文によると、実験に入る前の状況は次のようです。「月の向こう側は地球の誰も見ていませんね。あなたの透視能力ならできるかもしれない。」、「おもしろい。やってみましよう。」というわけです。 ここで出てくる疑問は、なぜ月の裏面というテーマが思いつかれたかです。これには先生のそれ以前の研究過程が関係しています。月の裏念写実験の1年前の昭和5年には、先生は三田氏を使って弘法大師の念写像を得ています。これは1095年前の歴史上の人物を透視・念写しているのですが、時間的にこんなに遠いものを透視できるのだから、次は空間的にも遠い月を透視できるかもしれないと、先生は考えたのです。また当時をさかのぽる9年前の1922年にはアインシュタイン博士が来日、講演があり(東北大学にも来られました)、宇宙とか天体への社会的関心が続いていたので、月裏面の透視・念写が成功すれば、透視・念写に対する社会の関心と理解は大いに促進されるだろうと、お考
さて昭和8年の月の裏面念写は、前にもふれましたが先生は関与せず、岐阜新聞社の準備で行われました。そのため実験の具体的な状況と結果は、先生の昭和20年の仙台移住以後に、三田家遺族からの寄贈による三田氏念写関係資料によって、初めてお知りになりました。そこで明らかになったことは、実験の準備・手続きを進める人が福来先生でなくて、他の人であっても、同じ結果が得られたということです。それまで先生の透視・念写の実験は発表の度ごと、先生と能力者の共謀によるトリックだという批判を受けていましたので、昭和6年の先生が準備した実験と、昭和8年の他人の準備による実験とが同じ結果になったことは、透視・念写が客観的事実であることを証明するものとなりました。 もう一つ証明されたことは、すでにご紹介しましたように、ひと度作られた観念は以後も存続するという観念存続説です。 これらの根拠が与えられて、福来博士は長い間の隠忍自重を解いて月の裏面念写を世界に向けて発表する論文を、お亡くなりになる年、83歳のとき、執筆なさったのです。 ここで福来先生像ともいうぺき人物像について、この研究所に関係する方々がどうとらえたか、素描を試みたいと思います。まず初代所長の故白川先生は、福来博士は心霊現象の研究を通して仏教哲学に入り、そして生命主義を主張した人としてとらえました。中沢氏は先生を超心理学者として位置づけています。黒田氏は先生の高等女学校長時代の教育的事跡に着目し、よき教育学者としての人間像に注目しました。浅間氏は博士の人柄の側面に強い印象を受け、そしてそこに含まれる篤い信仰の念を強調します。私、星といたしましては、先生は生涯を通して大志を貫き通した人としたいと考えます。飛騨福来心理学研究所の方々は先生を崇拝・信仰の対象として神格化して見ているようです。 次に先生のご生涯を居住地の変遷に従って特徴づけてみます。東京時代は、透視・念写の発見の時期でした。東京大学で助教授まで進まれながら辞職なさったことは、多津夫人にとってはたぶん残念だったと推察されまず。しかし先生は念書を入れて地位をつなぐ等の妥協をせず、「天下の反対学者を前に据え置いて余は次の如く断言する。透視は事実である。念写もまた事実である。」と、信念をまげませんでした。大阪府時代は、研究の拡大と展開の時期でした。弘法大師の念写像や月の裏面念写など、透視・念写の中でも画期的成果が出た時期です。仙台時代は研究の集約と大成の時期といえるでしょう。先生は飛騨の高山出身ですが、その地方の人々は東京大学肋教授就任には喜んでくれたが、東京大学退職では冷たくなったそうです。仙台では先生のもとに集う若い人たちもいて、こよなく仙台を愛されました。先生も奥様もなくなられた後も福来心理学研究所が設立され、先生の念写研究の記録の集大成である「念写実験の吟味」がそこで刊行されました。そして最後の自筆論文、“Study on Nengraphy”が「福来心理学研究所報告」第3巻(昭和61年)に発表されるにいたりました。月の裏面念写に関する学問的意義を長い間模索した後に執筆(昭和27年)された論文です。これがさらに遅れて34年後の昭和61年に印刷・発表されたのは、私が昭和58年に新潟から帰仙して、この未刊行のままの論文の存在に気づいて、研究所の中から探し出したという事情によるのです。要するに仙台時代に「吟味」と“Study on Nengraphy”が出て、先生の全研究歴をしめくくることになったのです。 ここでこのお話の題目のうち「その後の展開」というところに入りましょう。いまあげた英語論文の刊行もその「展開」の一つではありますが、まだその外に述べねぱなりません。まだ解かれていなかった謎は、念写された月裏面の図柄がはたして真の月の裏かということです。 1969年から1972年にかけて米国航空宇宙局は宇宙船から月を撮影し、月面円形地図を作りました。後藤以記工学博士はこれと福来博士・三田光一による月の裏面図を数学的手法によって比較し、主要な「クレータ」(噴火ロ)または海の31個について一致することを見いだしました。昭和60年、1965年のことです。なお後藤以紀(もちのり)博士は、日本心霊科学協会研究報告第二号において同協会常任理事という肩書きで発表しています。さらにまた大きな展開がありました。平成7年、1995年にリーダーズ・ダイジェスト社から「不思議史事典」(全464頁)が出まして、その中で福来博士による月の裏面念写を1頁半にわたって紹介して、フィルムに心で感光させる念写の事実を認めました。そして現在、本研究所の佐佐木理事は、特殊の画像処理と地質図の比較によってさらに高い一致度が得られる見通しで、発表に向けて準備を進めつつあります。
(福来心理学研究所会報 No.25 1999.5より訂正して掲載)
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